人権を守るためには、個性を尊重することが大切です。
そのため、人権標語としても個性に関するものが多くあります。
ここでは、個性とは?保育における個性とは?個性を昔は否定していた、についてご紹介します。
目次
個性とは?
個性という言葉が、社会には溢れています。
例えば、個性がある人、個性を大事にする、個性があるファッション、などというように、個性という言葉はさまざまなところで使われています。
しかし、個性とはどのようなことかについてはあまり考えるチャンスがないのではないでしょうか。
自分らしさということが、個性になります。
自分の特有の性格であり、性質です。
自分の内側にあるもので、外側にあるものではありません。
個性がある人は、感動、喜怒哀楽、芸術などに興味を示す傾向が強く、沈んだ暗い感覚も好むそうです。
というのは、生きていることを感情の浮き沈みに感じるためです。
個性がある人の特徴は豊かな連想力や想像力があることで、空想の世界によく耽るときがあります。
自分が思いついたものにはエネルギッシュになり、芸術において成功する人が多くいるようです。
保育における個性とは?
保育においても、個性に関係する考え方がいろいろあります。
保育目標や保育理念の中においても、「一人ひとりを大事に…」「個性を尊重して…」「個々の人権に注意して…」などがあります。
保育を行う上においても、適切に個性という言葉を把握することが大事でしょう。
まず把握しておく必要があるのは、一般的に今まではメリットという意味合いで個性という言葉を把握していた傾向がありましたが、子供の個性を本当の意味で考えれば、これは必ずしもメリットのみではないということです。
子供に保育の中で向き合うときの個性を尊重するということは、むしろその子供のデメリットさえも尊重するという意味であると把握しておきましょう。
子育てや保育は、ものを学校で教えるというようなこととは違っています。
子供に欠けていることがあったり、足りないことがあったりしても、これをいきなり初めから「なんとかしなければ」と思う必要はありません。
足りないこと、できないこと、いってもきかないことなどがあっても、まずは受け入れましょう。
子供を尊重することは、否定しないで受け入れた後から、問題意識として「この子供のためにどのようなことができるだろうか?」ということを考えることから始まります。
子供のデメリットがわかったときに、「これでは駄目である、なんとかしよう」と考える前に、一旦ありのままにそのことを受け入れるようにしましょう。
これはほんのちょっとしたことのように感じますが、大人がこのような視点を持つことによって、子供に対するアプローチは非常に違います。
個性を昔は否定していた
昔は、小学校などにおいて、食事を摂る量が多くなく、摂りきれない子供は給食の時間が終了してもそのまま摂り続けさせるようなことが当然のようにありました。
例えば、小学生のときに、非常に身体が小さくても少食の子供がいて、この子が給食を完全に摂りきれないでいれば、給食の時間が終了して掃除する時間になってもそのまま続けて摂らされるようなことが昔はありました。
このような子供が頑張って摂ろうとしていたのを、見たことがある人もいるのではないでしょうか。
現代ではこのようなことはないでしょうが、ここには正しく子供の個性を把握していない大人の考えがありました。
この子供を教育していた教師は、その子供にとってはいいことであると考えていたのでしょう。
この教師には、初めに子供に求める「こうならないと」「こうあるべき」という「正しいイメージ」がありました。
このときのイメージは、「給食を完全に摂れるようにならないと」というものです。
摂りきれない子供がいたときに、「摂れるようにしないと」と思って、そのための方法として「完全に摂れるまで努力させる」というようにしていました。
しかし、この教師は、「子供に求める正しいイメージ」が非常に強過ぎるので、子供の個性を認めないようになっていました。
食事を摂れる量は、個性があるため個人によって違っています。
やはり、少食の子供がいれば、その子供の成長や健康のために「給食を完全に摂れるようになって欲しい」と教師は求めます。
しかし、子供の個性を認めないで、これを求めるのは酷なときもあります。
給食を泣きながら摂らされていた子供にとっては、本当に酷であったことでしょう。
子供の自尊心が傷ついて、「自分は劣っているため別の子供と同じようにできない」ということで、疎外感を持ったり、劣等感を持ったりしたのではないでしょうか。